筋湯温泉の由来
~ 当館初代社長 甲斐宣吉書より ~
数々の獲物とりと云われ、また名人ともいわれた猟師甲斐治郎右エ門(甲斐家の祖先で万治元戌年、温泉を発見。開祖常興の石碑は今もお伊勢様の横に残っています)は、今年最後の狩りに九重山、山麓の冬景色の中へ猟犬を連れて出かけた。
今日に限っていっこうに獲物がない。吹雪のために前も見えない。その時、世にも珍しい「白いカラス」が飛び立った。
猟師はすかざす火縄銃をかまえこれを打ち落した。両県と一緒に捜したがどうしても見つからない。その日は吹雪の夕暮れでもあり諦めて帰った。今年の最後の狩りであった。年が明け春が来た。猟師は再びその山里に出かけて行って驚いた。去年あの吹雪の中で打ち落としたはずの珍しい「白いカラス」が、元気に飛びまわっていたのだ。
そんなはづはないと思いながら猟師は「白いカラス」が飛んでいった方向へ歩いていった。
そこには泉があり、「白いカラス」は羽を広げ身づくろいをしているではないか。その泉に手をつけてみると温泉であった。「白いカラス」はそこで、傷ついた体を癒していたのであろうか?‥‥
温泉は、センキ・センシャク・筋の病・肩こり・腰痛・切傷・火傷・むちうち、等々万病に効く、「くすり湯」として、家族や村中の評判になった。
そのことがあっていつの日か大名の知るところとなる。折りしも筋の痛みをもつ大名はこのくすり湯に浸り病を治した。
そこでこの湯に自分の悪かった筋をつけ「筋湯」と呼ぶ様になったといゝ伝えられている。うわさはたちまち広まっていった。
人々は牛馬に病人を乗せ、野菜、米、鍋、そして釜を積んで肥後街道、筑後街道、さらには豊前、豊後街道を通り筋湯へ湯治の旅へ出た。宿も士・農・工・商それぞれに整い大名宿(本陣旅籠)・農民宿(百姓旅籠)・商人宿(あきんど旅籠)に分かれていた。
芝居小屋もできずいぶんと賑わったと云う。
村人は打たせ湯を作り梅木文平と甲斐弥策の両名が温泉守人として湯銭をとることを天領日田代官から許されたといわれる‥‥。
今日打たせ湯を中心に薬師湯、せんしゃく湯、ひぜん湯、そして露天風呂、と古き昔のおもかげを残す筋湯は湯治の伝統を受け継ぎ温泉巡りの中で世の人々の病を癒しているのである。